トップインタビュー

2024.11.07

東京海上日動火災保険

突然の社長就任に「社長なんて想像したこともなかった」
問題解決に正面から向き合う「Re-New」とは?

三菱関連企業のトップのお考えやお人柄をお伝えする連載『トップインタビュー』。第18回は東京海上日動火災保険社長の城田 宏明氏に学生時代やキャリアの話、損保の将来や可能性について聞いた。

趣味は剣道、ゴルフ。食べ物は好き嫌いなく、とくに寿司が好き。お酒は何でもOK。歴史小説が好きだが、最近は経済誌や経営者の本をよく読む。休日はウォーキングなどをして過ごす。

東京海上日動火災保険 取締役社長
城田 宏明(しろた・ひろあき)

1969年神奈川県生まれ。1992年成蹊大学法学部卒業後、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災)に入社。2016年広報部長、2021年理事 営業企画部長 、2022年執行役員。2024年4月より現職。同6月東京海上ホールディングス取締役。同月日本損害保険協会会長に就任。

――54歳で社長に就任されました。社長の仕事をどう感じていますか。

城田社長になるなんて想像もしていませんでした。仕事としては、まず実務をすることが少なくなりましたね。その分、お客さまと会う時間が増え、行事やイベントなどに参加する機会や、社内の会議も増えました。その合間にやっと一人で考える時間を持てる感じです。今年6月からは損保協会の会長も務めることになりましたが、社長になった当初は仕事のペースをつかむのが大変でした。週末も土曜日はほとんど社用で埋まっており、日曜日にどうにか休めるかたちです。これまで休日は剣道をやっていましたが、今は月一回できるかどうかで、ウォーキングやゴルフの方が多くなっていますね。

――剣道はいつから始められたのですか。

城田小学2年生からです。私は三人兄弟の末っ子で、地元の道場で兄が剣道をやっていた影響もあり、始めました。横浜市で育ちましたが、当時私の周囲では野球と同じくらい剣道も人気がありました。練習は週三回、試合があれば日曜日も、という感じで剣道中心の生活を送っていました。剣道の先生はとても厳しい方で、小学生時代から礼儀や身なりに気をつけるよう叩き込まれました。

――中学・高校はどう過ごされたのですか。

城田進学した地元の公立中学でも剣道を続け、その後、県立高校、大学でも続けました。中学では副キャプテン、高校、大学ではキャプテンを務めました。
剣道からは、「人に会ったら必ず挨拶を欠かさない」といった基本から、「剣道の上達には自分の人間性こそが大事である」ということまで、さまざまなことを学びました。私は小学2年生から高校卒業まで同じ先生に剣道を教わったのですが、偶然にも同じ三菱グループ(三菱重工)にお勤めの方でした。厳しくも熱心な先生で、中学生になるとき「剣は人なり」という色紙をいただきました。文字通り、剣道を通じて自分の強さや弱さを知るということです。先生からは人間性を鍛えられたと思います。

成蹊大学剣道部時代の城田社長。

静岡・三島支社に配属され、
人生初めての一人暮らしを経験

――成蹊大学法学部に進まれても、剣道を続けられます。

城田体育会剣道部に入部しました。全体で30名ほどの部、スポーツ推薦のない学校でしたが、メンバーに恵まれました。全日本大会は、個人戦では一度絶好の出場のチャンスを逃しましたが、大学3年生のときに団体戦で大学史上二回目の出場を勝ち取りました。
当時はバブルの時代でしたが、自分には関係なく剣道が中心の生活。その合間によくアルバイトをしていましたね。百貨店のお歳暮やお中元の配送、宅配便、造園土木、家庭教師などたくさんやりました。アルバイト代で日本全国、友人とよく車で旅行していましたね。

――東京海上を志望されたのはなぜですか。

城田もともと父と祖父が商社勤めだったこともあり自分も漠然と商社を志望し、就職活動するようになりました。そのとき、たまたま大学剣道部の一つ上の先輩が東京海上に勤めており、社内の剣道部で私のことを話してくれていたようです。そんなある日、別の大学出身の剣道部の先輩から「受けてみないか」と連絡がありました。私は商社希望でしたから、最初は積極的ではなかったのですが、実際に先輩たちと会って話を聞いてみると、損保の仕事に惹かれるようになりました。とくに「紙と鉛筆で仕事をするので、人としての信用が仕事につながる。仕事を通じて人としても成長できる」と言われ、まさに「剣は人なり」という言葉に通じるものだと感じました。幸いにも内定をいただき、入社する決断をしました。

――入社後、最初の配属先はどちらでしたか。

城田静岡の三島支社に配属されました。私はずっと実家から学校に通っていたので、横浜や東京から離れたことがありません。一人暮らしに憧れていたのです。研修期間中に配属面接があったのですが、そこで「会社の部で剣道をやりたいので、土日に東京に帰れる程度の場所がいい」という希望を出していました。人事部は「勝手なことを言う」と笑っていましたが、実際に希望が叶って、喜んで赴任することになりました。

困難な仕事は誠実に正面から向き合う。
結果として、それが一番の近道になる

――新入社員時代の印象に残る思い出はありますか。

城田当時はバブルの終わり頃でしたが、会社としては販路を拡大し、支社やその人員を増やしている状況でした。三島支社には、増員として配属されました。
損保の営業は代理店を経由して行うのが通常で、私は取引額が少ない100店ほどを担当しました。一生懸命に代理店の皆さんと関係性をつくり、積極的に提案をすればするほど成果は上がりました。それが自分の自信にもつながりました。当時は生意気盛りでしたが、あとで支社長が若手育成のために、そうした場を与えてくれていたと知って、今でもとても感謝しています。

――その後はどういった仕事に就かれたのですか。

城田3年ほど三島支社にいて、その後、東京の青山支社で6年、三重の四日市支社で5年過ごし、30代半ばで本社の営業開発部企画グループに配属されました。とくに四日市では支社長代理として中小代理店の組織再編に携わり、かなり深い議論を重ね、合併の仲介をしながら新しい会社を立ち上げることに注力しました。そのときの組織づくりや経営に携わった経験は今も役立っていると思います。面倒なことやイヤなことでも、要領よくこなすのではなく、逃げずに正面から誠実に対話することを学びました。それが結果的には一番の近道になるのです。
また、生損一体型の新商品「超保険」が発売となり、日本で一番販売しようと、代理店と一緒に取り組み、代理店とともにお客さまから選ばれようと充実した日々を送りました。

――損保のデキる営業にはどんなスキルが必要なのでしょうか。

城田まずは代理店がしっかり保険商品を販売できるよう体制を構築する力があるかどうかが大事だと思います。損保の営業は保険の売り方やお客さま対応について、代理店を育成していく立場になります。ときには代理店と一緒にお客さまのところへ出向き、サポートに当たります。つまり、代理店の販売力を強化し、一緒にマーケットを開拓していく力が必要になるのです。損保の営業は知識を教えるだけではなく、代理店の一人一人と会って、やる気にさせ、組織を動かす力が重要であり、代理店経営に貢献する必要があります。

社長打診はまさに青天の霹靂。
最後に「がんばります」と答えた

――仕事で苦労して印象に残っていることは何ですか。

城田東日本大震災の時は、本店でテレビを見て呆然としました。その後自分が復興に向け何をすべきかを考え、実現していくことに尽力しました。
コールセンターを立ちあげたり、代理店の為に仮設住宅を建てたり、融資制度をつくったり、今までの経験が何も生かせない中で、お客さまや代理店の為にスピーディーな対応を迫られました。皆で考えることで知恵を出し合い、何とか形にすることが出来ました。この経験によって、皆で強い思いを持って臨めば何事も実現できる、思いは叶うということを実感しました。
その翌年、仙台支社長として赴任することになり、引き続き復興に向けた取り組みをすることが出来ました。

――その後、広報部長や理事を経て、執行役員営業企画部長を担当されます。

城田広報部時代は、毎晩のように情報交換が必要で、よくメディアの方々と飲んで幅広い議論をし、他業種の広報の方々と交流できたことは非常に勉強になったと思います。営業企画部長のときは国内営業全体を統括していました。そこでは営業体制の改革を行いましたが、反対する意見も多く、社内の意見をまとめることに苦心しました。このときも正面突破で臨んだことが良かったと思っています。

――営業企画部長のときに突然、社長への打診があったと伺いました。当時はどんなお気持ちでしたか。

城田まさに青天の霹靂です。当時の社長が交代するタイミングではないと思っていましたし、私は営業企画部長で、ヒラの執行役員です。執行役員からいきなり社長になるなんて考えてもいませんでした。打診があったときは、とても驚きました。前社長から一時間以上話を聞いて、最後に「がんばります」と答えました。

能登半島地震では新たな対応。
これからもお客さまの“いざ”をお支えしたい

――最近は国内で甚大な自然災害が増えています。損保も対応に追われるなか、社長として、どういった会社になりたいとお考えですか。

城田今年1月には能登半島地震が発生しました。被害に遭われたお客さまには一日でも早く生活再建を開始いただけるよう、迅速な保険金支払いを実施することを何よりも最優先事項として対応してきました。迅速な保険金支払いのために、事故の受付や保険金支払い業務を遠隔で実施できるマルチロケーション対応を実現し、被災地だけでなく、全国の社員による対応を可能としました。また、当社が出資している人工衛星運営会社(ICEYE)の衛星写真を活用し、保険金査定の難易度が高い液状化地域の事前特定を行い、技術力の高い鑑定人の優先的な派遣などを実施しました。
被災地支援に関しては、当社のパーパスである「お客様や地域社会の“いざ”をお支えする」を実現すべく、代理店などの取引先や自治体、病院へ水・非常食・簡易トイレなどの物資支援を行っています。さらに、事故後のサービスでは、被災地の皆さまに有益な情報をお届けすべく、自社HP上に特設ページを開設し、2023年11月に防災・減災領域における新たなサービス・ソリューションを開発する目的で設立した東京海上レジリエンスが提供している気象情報、警報・注意報発令情報や危険度情報などをワンストップで伝える「レジリエント情報配信サービス」を無償提供してきました。まさに当社の代理店とともに、強い使命感を持ち、今後も地震保険の普及に努めていきたいと考えています。

昨年来、保険料調整行為事案や情報漏えい事案にて、皆さまに大変なご迷惑とご心配をおかけしておりますことをお詫び申し上げます。今後二度とこのような事案が生じないように、2024年度からスタートした中期経営計画のキーコンセプトを「Re-New」とし、従来の損保業界の常識にとらわれず、「お客様起点」でのビジネスを通して、信頼の回復に努めます。そして、保険にとどまらない災害の事前・事後を支えるソリューションを代理店とともにお届けし、お客さまの“いざ”をお守りすることで安心と安全を提供してまいります。

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