トップインタビュー

2025.03.13

浦和レッドダイヤモンズ

戦術や選手起用に一切口出しをしない。
スポーツチームの社長は
ある程度、現場と距離を保つことが必要です

三菱関連企業のトップのお考えやお人柄をお伝えする連載『トップインタビュー』。今回は浦和レッドダイヤモンズ社長の田口 誠氏に学生時代やキャリアの話、社長としての会社の目標などについて聞いた。

秘書室長時代は会長や社長、相談役の方々の食事に付き合い、ご相伴にあずかることが多かった。お酒が好きだったので、その時間はとても有意義だったという。

浦和レッドダイヤモンズ代表取締役社長
田口 誠(たぐち・まこと)

1963年東京都生まれ。1985年早稲田大学教育学部卒業後、三菱重工業入社。サッカー選手として活躍したのち、1996年横浜製作所総務部総務課庶務広報係長、2002年社長室広報・IR部ブランド戦略グループ長、2016年秘書室長、2021年総務部長、2023年2月より現職。

――2024シーズンは、主力選手の移籍や監督交代でチームの成績が安定せず、一時は残留争いにも巻き込まれました。最終順位は13位。まず2024シーズンの振り返りと2025シーズンに向けた展望をお聞かせください。

田口2024シーズンは補強にかなり力を入れて、J1リーグ優勝に向けて体制を整えてきました。沖縄合宿の内容もよかったのでかなり期待をしていましたが、シーズン途中で主力選手が移籍したことに対し、効果的な補強が結果的に行えなかったことや、その後の監督交代など、チームとしてなかなかかみ合わなかった部分がありました。さまざまな反省を踏まえ、2025シーズンに向けては前シーズン途中からマチェイ・スコルジャ前監督を再び起用したことで、ゼロからのスタートではなく、ある程度のベースをもとに、さらに実力を積み重ねていきたいと考えています。

2025年は6月~7月にかけてアメリカでFIFAクラブワールドカップが行われます。世界の強豪クラブ、32チームが参加しますが、アルゼンチンのCAリーベル・プレートやイタリアのインテル・ミラノ、メキシコのCFモンテレイなど実力のあるチームがひしめく組で戦うことになります。そこでいい結果を出して、J1リーグ戦につなげたい。やはりJ1リーグ戦のチャンピオンこそが今クラブが一番欲しいタイトルであり、常に優勝を狙えるポジションにいるチームをつくっていきたいと思います。

©URAWA REDS
社長就任直後の2023年5月、三度目のアジアチャンピオンになったときスタジアムで地鳴りのような
「We are REDS!」を聞いたときは感動で身体が震え、この場にいる幸せを味わった。

――もともと三菱重工ではサッカー選手として活躍されていたそうですね。

田口Jリーグができる前に日本リーグというトップリーグがあり、三菱重工サッカー部に所属していました。サッカーを始めたのは小学5年生のとき。当時サッカーはマイナースポーツで、近所の子ども達は野球ばかりしていました。でも、野球はボールが飛んできたり、打順が回ってきたりしないとプレーに関与できず退屈。一方、サッカーはパスをしなければずっと自分がボールを支配することができる。我が強い自分の性格に合っているかなと思って始めたのです(笑)。

――サッカーが性に合ったのですね。

田口私が育ったのは神奈川県藤沢市です。「サッカーの御三家」と呼ばれる浦和、広島、静岡と並び、藤沢もサッカーが盛んな都市でした。各小学校には必ずサッカーチームがあり、小学5年生のときから本格的に指導を受けることになりました。ちょうどその年の1974年に西ドイツでFIFAワールドカップがありました。西ドイツが優勝しましたが、フランツ・ベッケンバウアーやゲルト・ミュラーなど活躍するトップ選手を見て、もう自分にはサッカーしかないと考えました。その後、小中高、大学とサッカーを続けました。

体育教師になれなかったが
三菱重工サッカー部で新たなチャレンジを

――大学は教育学部ですね。

田口小中高とよい指導者に巡り合えたこともあり、大学では教員志望で体育教師になりたいと思っていました。しかし、大学4年生のとき教員試験に見事に落ちてしまったのです(笑)。その頃、いくつかの実業団チームから声がかかっており、教員になるつもりだとお断りしていました。ちょうど試験に落ちたタイミングで三菱重工の監督から「これからどうする?」と連絡があり、私は再度教員試験を受けるつもりだったのですが、教員になれる年齢制限の28歳まで「サッカーをやればいいじゃないか」と言われ、お世話になることになりました。

©URAWA REDS
選手時代はディフェンダーとして長くトップリーグ(当時は日本リーグ)で活躍した。

――三菱重工サッカー部では7年間、選手として活躍されたそうですね。

田口選手としては楽しかったですね。大きなケガもせず、ディフェンダーとして相手のストライカーを徹底マークするといった地味な役割でした。引退したのは29歳。その翌年にJリーグがスタートしました。もう選手としては通用しないと考えていたので、引退に後悔はありませんでした。
当時の日本リーグは観客も少なく、芝生もガタガタ。国立競技場で試合をしても5,000人も集まらなかったのではないでしょうか。ウォーミングアップをしていると誰が観に来ているか分かるくらい観客が少なかった。チームで試合前にサインしたミニチュアボールを、観客席に投げるのですが、うちの実家にはそれが5つくらいあります(笑)。テレビ中継があるときは、見栄えがするよう芝生に緑色のペンキを塗っている。そんな時代でした。

――選手生活を終えて、その後はどうしようと思われましたか。

田口三菱重工で仕事がしたいと思いました。入社当初、本社人事部に配属されたのですが、会社の野球部やサッカー部のOB達が職場でバリバリ仕事をしているわけです。正直、かっこいいなと。自分も先輩達のようになりたいと思っていました。三菱重工は本当に度量の大きい会社でした。好きなサッカーを7年間もさせていただいた会社に、自分も恩返しをしたいと考えたのです。

「自分の親父のように接した」
秘書として社長、会長、相談役に仕える

――サッカー選手からビジネスパーソンになって仕事はいかがでしたか。

田口楽しかったですね。選手時代は人事部で海外出張のサポートや給与計算などを担当していたのですが、引退後は同じ人事部で社員教育や人事異動の担当になりました。そこでついた上司が厳しいのなんの……(笑)。選手時代は肉体的な苦しさに耐えてきましたが、今度は精神的に鍛えられました。その方から厳しくしていただいたおかげでなんとか30年以上、会社に勤めることができたと考えています。

――2002年には社長室広報・IR部ブランド戦略グループ長に就任されます。

田口会社の広報宣伝を担当することになりました。当時、三菱重工は広告を出しておらず、良い製品をつくっていればそれでいいという考え方でした。しかし、私が就く2年前くらいから、年間数本程度の広告を出し始めていたのです。私はブランド戦略を担当し、コーポレート・アイデンティティ(CI)を初めて体系的につくることに関わりました。
その後、ラグビーチームの三菱重工相模原ダイナボアーズの事務局長に就くことになりました。チームがトップリーグに昇格したことで、スポーツ経験者がクラブの事務局を担当した方がいいということになったのです。しかし、会社の事情もあり3カ月で交代し、相模原製作所の勤労安全課長に就くことになりました。その後、人事部でお世話になった上司から本社に帰ってこいと声がかかり、秘書室に異動することになったのです。

――秘書室の仕事はいかがでしたか。

田口結果として12年間くらい担当したでしょうか。昔の秘書室は役員に必要以上に気を使いすぎる傾向がありました。しかし、私は社長、会長、いずれにしても会社の機能としてどう動いてもらうかを意識するようにしました。それを秘書室にも徹底させ、会社の機能として役員がスムーズに動けるよう心掛けたのです。
私は社長、会長ほか、相談役も担当していました。相談役の方々のなかには、会長時代に広報として仕えた方もいて、とても厳しく怖かった印象があります。しかし、亡くなった親父と同い年くらいだったので、親父のような感覚で接していました。ほかにも話の長い方がいて、長い時間お付き合いすることもありました。夏の暑い時期などでお元気がないときには、私からそれとなくお声掛けして、その方の好物であるうなぎを何度もご相伴にあずかっていました。

戦術や選手起用などは現場に任せています
社長はお詫びのときに出ていけばいい

――2021年には総務部長に就任されます。

田口秘書室のときの部下は17人くらいでしたが、総務部長になって一気に部下が150人に増えました。選手を引退したあと、初めて役職者に任命されたときから専門職ではなく、ライン長をやっていたことが多く、部下のマネジメントには苦労しました。このように社業に専念していたのですが、定年退職する3カ月前に浦和レッズの社長に就くことになったのです。前任社長もサッカー部の出身だったので、周囲から次期社長だと見られていたようですが、正直、自分では「そうかな」という程度で、とくに意識はしていませんでした。

――スポーツチームの社長とは日頃、どんな仕事をしているのですか。

田口ほとんど現場には出ないですね。試合のとき、とくにホームゲームの場合は、その試合に対する責任が発生しますので、両チームの選手を乗せたバスがスタジアムを離れるまでは現場を離れることはできませんが、それ以外は基本的には現場にはいません。浦和レッズはトップチームのほかにレディースチーム、ユースチーム、それにスクールも有しているので、年の半分くらいはどこかで動き回り、土日はほとんど試合会場にいることが多いです。

――スポーツチームをマネジメントするうえで、気をつけていらっしゃることはありますか。

田口選手時代に自分もイヤだったことは、普段グラウンドには来ず背広を着て革靴を履いた人間が、現場のディレクター や監督と同じような立場でサッカーについて語ることです。それだけは自分もやらないようにしています。戦術や選手起用にも一切口出しはせず、現場に任せています。それをされると、選手がシラけてしまうのです。シーズンの終わりにホームゲームで、社長が挨拶する場面がよくありますが、これも辞退しています。ファン・サポーターの皆さんが応援しているのは社長ではなく、選手、監督、スタッフだからです。社長はお詫びをするときに出ていけばいい。社長は現場のスタッフを査定しなければならないので、ある程度、距離を保つことが必要だと考えています。

サッカーを通して地域社会に貢献する
ハートフルサッカーの活動

――では、スポーツチーム社長としての仕事の醍醐味とは何でしょうか。

田口やはりチームが勝ったときです。それに尽きます。就任当初はシーズン中の勝敗に一喜一憂していましたが、今はしないように心掛けています。それでも2024シーズン中に降格危機を迎えたときは、眠れませんでしたね。もしもの場合の進退伺いも考えていたほどです。最後までチームを信じ、結果としてはそうせずに済みましたが、2024シーズンは気を揉む年でした。

©URAWA REDS
社会貢献活動としてサッカースクールや各種イベント、障がい者の方々やレディース、シニアの方々との交流を実施。

――会社の社会貢献活動として、ハートフルサッカーを実施されています。

田口小学校などでサッカースクールを開催したりしています。東日本大震災以降、東北地方の地元の子ども達とサッカーを通して交流してきました。2024年は初めて岩手県の陸中山田に行ってきました。サッカーだけでなく、社会貢献活動としてスポーツの影響力は非常に大きい。浦和レッズには「社会の一員として、青少年の健全な発育に寄与する」というクラブ理念があります。私も好きな文言であり、国内外でのハートフルサッカーの活動を通して、地域社会に貢献していきたいと考えています。

――今後の課題と展望についてお聞かせください。

田口課題としては将来的に拠点を集約し、スタッフとのコミュニケーションをもっと活性化させていきたいと考えています。一方、展望としては、クラブの事業収入が初めて100億円を突破し、今後もそれを持続させていきたいと思っています。現在の収入の3本柱はパートナー企業からの広告協賛収入、入場料収入、グッズ収入です。しかし、これらも頭打ちで、これからは海外のクラブと提携し、相互に選手レンタルをし合うなど、何か新たな取り組みができないかと考えています。

――最後にメッセージをお願いします。

田口浦和レッズのトップチームだけでなく、レディースチームの応援にもぜひ来ていただければと思っています。2025年はアメリカ全土で行われるクラブワールドカップにも出場します。こちらにも旅行がてらでも、現地に勤務されている方は現地スタッフの方とお誘い合わせのうえで来ていただければ幸いです。スリーダイヤをつけて戦っていますので、ぜひご声援をいただきたいです。

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