
しとしと雨が降ったりやんだり。曇天のなかで過ごすこの季節はロマンティックではあるけれど、旅行やスポーツなどに出かけるのもおっくうになりがち。こんな季節こそ本を相棒にしてはどうだろう。日頃、爽快なエンタメや即役立つビジネス書を愛読している人も、あえて雨音のなかでしっとりと読みたくなるような、いつもとはひと味違う本に手を伸ばしてみるのがおすすめ。自宅にいながらにして、異世界にワープしたような時間を楽しめる。

Spring
恩田 陸著 筑摩書房(1,980円)
Ten thousand Spring。ゲスト講師のエリックに名前の意味を聞かれてこう答えたのは萬春(よろず・はる)だった。
人並み外れたダンスの才能と美しさをもつ春は、8歳でバレエと出会い、15歳で海外に渡った。舞踏家として、振付師として、彼は何を目指し、何を求めていたのか。海外の名門スクール留学を目指すワークショップで出会ったダンサー仲間の深津、少年時代を知る叔父の稔、幼馴染の七瀬と、彼を取り巻くそれぞれの人の視点で春の輪郭が浮かび上がり、最終章で春自身が語り手となってその内面を明らかにするという構成で、一人の天才ダンサーの姿が映し出されていく。
『チョコレートコスモス』で演劇オーディションの世界を、直木賞受賞作『蜜蜂と遠雷』でピアノコンクールの世界を描いた著者が、構想・執筆に10年かけ、今回はバレエの世界に迫った。クラシックバレエなんてスノビッシュ、自分とは関係のない世界と思っていた方なら、そこにどんな葛藤や喜び、見どころがあるかを知る入門書としても楽しめるだろう。バレエ好きにとっては新しい“推し”と出会ったような気持ちになるかもしれない。とにかく雨のなか、舞台まで足を運ぶよりももっと深く鮮やかに、物語を通してバレエという芸術に触れられるはずだ。なお、ページ下に踊るダンサーが描かれ、一冊でぱらぱら漫画になっているデザインも楽しい。

デヴィッド・ストーン・マーティンの素晴らしい世界
村上 春樹著 文藝春秋(2,530円)
最近は好きなアーティストのアルバムもダウンロードで楽しむ人が多いだろうし、もはやサブスク中心で、久しくアルバムを買っていないという人も少なくないだろう。そんな時代に改めて、“レコードジャケット”のもつ価値を思い起こさせてくれる本作。まるで著者が自宅に山積みされた古いレコードを整理している現場に立ち会っているようだ。
「デヴィッド・ストーン・マーティン」とは、ジャズミュージシャンの名前ではない。レコードジャケットのイラストレーター、アートディレクターだ。ジャズファンでありレコード盤好きの著者が、ある時期から積極的に(ただし5,000円を超えるコレクター級のものは買わないというルールを自らに課して)集めてきたこのデヴィッド・ストーン・マーティン(DSM)ジャケットの、私蔵レコード188枚について、現物カラービジュアルとともに語るジャズ・エッセイ。音楽プロデューサー、ノーマン・グランツの傘下ミュージシャン作品を手掛けたものが多く、当時のジャズ業界の相関図のようなものも浮かび上がる。
ジャケットの絵のこと、アルバムに収められた音楽の話などが自由に語られていて、本当に著者が「ちょっとこれ聞いてみる?」とレコードに針を落としたり、ジャケットを愛しそうに見せてくれたりするようだ。アートと音楽と村上 春樹節を同時に楽しめる贅沢な一冊。

BLANK PAGE 空っぽを満たす旅
内田 也哉子著 文藝春秋(1,760円)
母に樹木希林を、父に内田裕也をもち、なんとなれば夫が本木 雅弘。普通ではいられそうにない。そんな類まれな生い立ちにあっても、ことさらにそれを言い訳にすることも抗うこともなく、ひたすら真摯に生きてきたのであろう著者。彼女は2018年秋に母を、2019年春に父をたて続けに見送った。嵐のようなふたりを。そこに空いた大きな穴を埋めるため、始めたのがインタビューの旅。
本書は「週刊文春 WOMAN」の連載ではあるが、対談にはほぼ一人で足を運び、そのアウトプットのフォーマットも自由。対話形式もあれば、回想スタイルもあり、詩もある。登場するのは、谷川 俊太郎、小泉 今日子、中野 信子、養老 孟司…年齢も職業も性別もさまざまな15人。相手の方のご自宅で行われる回もあれば、カフェやレストランで語り合ったものも。生きること、死ぬことについて、家族について、人と関わることについて、対話する。迂回しようとしても顔を出す「母の面影」「父の残像」に、苦しみながらも向き合う姿は、けれど決して痛々しくはなく、新たな旅立ち、船出を思わせる。
誰の心のなかにも、引きずっている関係性があり、忘れられない記憶がある。けれどそれらを自分の一部として許し、見送ることで次の一歩が踏み出せるのだろう。著者とともに心の澱を洗い流せば、そのあとにはきっと初夏の爽やかな日差しが待っている。
ライタープロフィール

文/吉野ユリ子
1972年生まれ。企画制作会社・出版社を経てフリー。書評のほか、インタビュー、ライフスタイル、ウェルネスなどをテーマに雑誌やウェブ、広告、書籍などにて編集・執筆を行う。趣味はトライアスロン、朗読、物件探し。