みにきて! みつびし

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“カントリージェントルマン” 岩崎久彌が夢見た農場

旧岩崎久彌末廣農場別邸公園

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こんにちは! 事務局のカラットです。これまで「みにきて!みつびし」では、一般に公開され、見学したり楽しんだりすることができる三菱ゆかりの地を多数紹介してきました。そしてこの度、一般公開されるゆかりの地がまた一つ誕生すると聞き、千葉県は富里(とみさと)市にある「旧岩崎久彌末廣農場別邸公園」におじゃましてきました!

復元された庭園を臨む岩崎久彌の屋敷がいよいよ一般公開へ

富里といえばスイカ! 市役所前には巨大なスイカのオブジェが。

東京都心から車で約1時間。国際空港を擁する成田市のお隣にある富里市は、人口約5万人の、農業を主要産業とする街です。特に名産の「富里スイカ」は、街を挙げてのユニークなマラソン大会「富里スイカロードレース」と合わせてご存じの方も多いことでしょう。首都圏エリアながら豊かな自然が溢れるこの街には、農業に新規参入するために転入してくる人たちが毎年一定数いて、農業を志す方を惹きつける魅力を持っているようです。

その富里市で2025(令和7)年4月の一般公開が予定されているのが、「旧岩崎家末廣別邸」です。

末廣別邸は、三菱第三代社長・岩崎久彌が晩年を過ごした屋敷で、敷地内にある主屋・東屋・石蔵の3つの建物がいずれも国登録有形文化財です。庭園部分は「別邸公園」として屋敷に先駆けて公開され、お茶会などのイベントが開催されていましたが、今年いよいよ、主屋の内部が公開されます。

取材に訪れた日は底冷えのする寒さでしたが、見晴らしのよい広い庭は美しく整備され、踏み心地の柔らかなウッドチップで舗装された地面を歩きながら、整然と春を待つ「久彌さんの畑」を眺めると、冷たい風の中にも清々しい気持ち良さを感じます。

「でも整備を始める前は、竹と篠が生い茂って見通しもきかない状態で、時が止まっていたようでしたよ」と話すのは、富里市役所商工観光課課長の林田利之さん。

お話を伺った林田利之さん。残された資料写真をもとに庭の木々の配置を再現するなど復元に精力を傾け続ける。
工事が始まる前の、主屋から見た庭の様子。左奥の木の向こうに東屋が見える。「庭」というより「森」という様子だった。(写真提供:富里市)

末廣別邸は2012(平成25)年に三菱地所から富里市に寄付されました。それまでも屋敷の維持管理は行われていましたが、公開を前提としたものではなかったため、庭はほとんど手付かずの状況でした。木々が生い茂り中の様子をうかがい知ることが出来ない当時の様子は、富里市民から「この森は一体何?」と思われていたとか。

そこで富里市は、建築的・庭園的・歴史的に価値のあるこの財産を守り、しっかりと伝えていくことを使命と捉え、本格的な敷地と建物の整備に取り掛かりました。

整備プロジェクトに最初から関わった林田さんは、ただ単に庭の木を刈りきれいにするのではなく、残された往事の資料に基づき、「久彌が暮らした当時の庭を復元すること」にこだわりました。生い茂っていた竹や、風や鳥に運ばれてきた種から自然に生え育った木は伐採してウッドチップに変え、逆に写真には存在が確認できるもののその後失われたり衰弱したりしていた木々は挿し木をして元の生態系を活かした再生をするなど、歳月を費やした復元プロジェクトが実行されました(参考記事)。新たな見どころとして、同じく三菱と深いゆかりのある東京の六義園から株を分けた紫陽花を植えるといった趣向も加えられています。

主屋から見た現在の庭。生い茂っていた竹林は消え、広々した芝生を高い木が囲む、かつて久彌が眺めたであろう庭の姿が蘇った。これから緑の季節を迎えるのが楽しみ。
新たに植えられた紫陽花による「あじさい通」。初夏になればウッドチップで舗装された道に沿って13種の紫陽花が見ごろを迎える。
「久彌さんの畑」と名付けられた庭の畑では、富里市が日本一の収穫量を誇るニンジンをはじめ、大根やじゃがいも、カブなどの野菜が収穫できる。
庭の一角にある東屋は、庭園を楽しむための応接室のような建物。主屋・石蔵とともに国の登録有形文化財。
「富里市の農の歴史や末廣農場の歴史を伝え、そして富里の今を味わえる拠点」として別邸の隣にオープンした富里の観光・交流拠点「末廣農場」。(写真提供:富里市)

こうして生まれ変わった別邸公園は市民に公開され、「久彌さんの畑」で取れる野菜の収穫体験も恒例行事として行われるようになりました。さらに2022(令和4)年6月には、すぐお隣に観光・交流拠点施設「末廣農場 」もオープン。最後となった主屋の修復工事も間もなく完了し、久彌がこの屋敷で亡くなってから実に70年の時を経て、末廣別邸が再び目を覚まそうとしています。

そもそもなぜこの場所に岩崎久彌の別邸があったのでしょうか。また、なぜ隣接する施設は「末廣農場」と名づけられたのでしょう?

「古くから近隣に住む方にはここは『三菱別荘』と呼ばれていましたが、そう呼ばれている理由やここにある経緯については、あまり知られていませんでした」(林田さん)

ところがある時、市民向けに開催した富里市立図書館の「歴史講座」の中で林田さんがこの地について取り上げると、予想を上回る参加者がやってきたうえ、「祖父がここの農場で働いていた」「こういう話を聞いたことがある」という逸話が続々と集まったのだそうです。

富里市と岩崎家。2つの歴史が交差する場所が、「末廣農場」だったのです。

三菱第三代社長は、畑を愛する『カントリージェントルマン』だった

三菱創業者・岩崎彌太郎の長男として生まれた久彌は、1894(明治27)年に29歳の若さで三菱合資会社の社長に就任して辣腕を振るいましたが、51歳のときに突然、従弟の小彌太に社長の座を譲り、自らは三菱の事業から一切身を引きます。引退した久彌が残る半生を費やしたのが、農業でした。

久彌は社長在任時から農牧事業に大きな関心を寄せていましたが、引退後はその関心にますます傾倒し、叔父で三菱第二代社長の彌之助が明治政府から払い下げを受けた富里の103万坪(約340ha)の土地に開かれた農場に「末廣農場」と名づけ、長年抱き続けた「日本の畜産界の進歩発展のためになる模範的実験農場」実現の夢を叶えるべく、この地で農牧事業に取り組んだのでした。

馬車に乗る久彌(中央)と橘常喜 末廣農場長(右)(写真所蔵:橘家)
鶏の放飼いと孵卵舎。久彌はとりわけ鶏が好きで、孵卵舎は主屋から見える位置に建てられていた。(写真所蔵:橘家)

養鶏の優れた研究成果を残した一方で「庭で遊ぶ鶏は可愛くて食べる気にはなれない」と手紙に記すなど、久彌は穏やかで心優しい人物であったことが、多くの記録や証言から伝わっています。「人や社会のためになること」に心を砕いた久彌でしたが、末廣農場は、そこに自身の農業への想いも加わり、まさに生涯を捧げた夢の農場であったことでしょう。

久彌の熱意を原動力に隆盛を誇った末廣農場でしたが、第二次世界大戦終結後のGHQによる財閥解体・農地解放で一部は千葉県のものとなり、その他の農地は農場員に分け与えられました。久彌は残された6haの農場で静かな晩年を過ごし、1955(昭和30)年にその生涯を終えたと同時に、末廣農場の歴史も途絶えることとなりました。

久彌と末廣農場が今に伝える富里の名産

広大だった末廣農場では最新の設備や機械が導入され、養鶏、養豚、大豆・小麦を中心とする農作物の生産が行われていました。その実績は千葉県農事試験場が白菜やスイカの原種・原々種の栽培を末廣農場に委託するほどだったそうです。そう、冒頭登場した富里の名産品・スイカは、久彌の農場で作られたスイカが現在へと受け継がれているものなのです。

自家製のハムやソーセージ、ベーコンといった加工食品も生産され、このとき種豚となった中ヨークシャー種の血統は、希少価値の高い豚肉「ダイヤモンドポーク」として現在も続いており、千葉県第2位を誇る富里の養豚産業の一角を担っています。

中ヨークシャー種の純粋種「ダイヤモンドポーク」を使ったメニューは、観光・交流拠点「末廣農場」のレストランで味わうことができる。ジューシーさがたまらない!
千葉県産ブランド肉「房総ポーク」を使用して開発された「末廣農場ハム」は、千葉の新たな贈答品を選ぶコンテストでグランプリを受賞した逸品。

このように末廣農場は千葉県の近代農業、そして富里の名産品のルーツともなっており、富里市の歴史と発展に深く関わっています。富里市ではこの偉業と久彌の想いを受け継いで、市内外へ末廣農場の魅力を伝えていきたいとしています。

富里市出身の林田さんには、小学生時代にこの庭で桜を写生した思い出があり、その桜の木も今回の復元で再生されています。

「庭の景観を取り戻すことができ、夢見た形になって感無量です。私が子どもの頃にこの庭で見た景色を思い出すように、これからの子どもたちも、復元した庭で思い出を作ってくれたら嬉しいですね」

一般公開の迫る主屋廊下に座り、復元をかなえた庭を見つめる林田さん。久彌もきっとこの場所で、想いの詰まった農場で次の研究課題を考えていただろう。

末廣別邸の主屋は、社長時代の久彌が暮らした東京の茅町本邸(現「旧岩崎邸庭園」)の重厚感とはがらりと異なり、「侘び」の趣さえ感じる落ち着いた日本家屋です。晩年の久彌は財閥解体により質素な暮らしを余儀なくされましたが、多くを持たない暮らしの中に慈しむものを見つけ出すことこそが、岩崎久彌という人の本質だったのではないでしょうか。富里の地は、財閥の総帥として波乱万丈の人生を送った久彌が最後に辿り着いた安住の地であったことが、静かな屋敷に強く感じられます。

主屋の廊下に腰かけると、広い庭とその向こうに広がる空を一望できます。在りし日の久彌もここに座り、風に揺れる木々の音を聞き、土の匂いを嗅いで、収穫物の鮮やかな色を見つめたことでしょう。ぜひ富里を訪れて、別邸に残る久彌の想いを感じてください。

富里市長インタビュー
「貴重な財産を守り育てることが我々の使命」

――登録有形文化財となってから12年を経て、まもなく末廣別邸が一般公開されます。
「三菱地所さんから寄付いただいた翌年には文化財登録を行ったのですが、2019(令和元)年の台風で、別邸公園でもたくさんの木が倒れる被害が出ました。ただその中にあっても奇跡的に屋敷には倒木の被害がなかったんです。『これは久彌さんが屋敷を守ったに違いない』と考えて、修復に取り組んできました。庭と屋敷の修復工事がまもなく完了し、ようやく一般公開というスタート地点に立てるということで、大変気持ちが高ぶっています」

――末廣別邸を通じ、富里市のどんなところに触れてほしいですか?
「末廣農場は富里の農業の原点であり、千葉県の近代農業の発祥の地でもあります。末廣農場で扱っていたスイカやニンジンは今まさに富里の特産物になっていますし、豚についても当時の血統種がまだ残っていて、豚肉の生産量も多いんです。ここで生まれた名産品を、時代が変わってもしっかりと守り、今も全国に広げているということを知っていただきたいですね」

――今後の展望をお聞かせください。
「歴史については市民の方でも知らない方も多いので、改めて伝えていかなければと思います。主屋でのミニコンサートやお茶会を定期的に開催して、市民の皆さんの要望も柔軟に受け止めていきたいですね。スイカロードレースで富里にお越しになる市外の方にもぜひ別邸を訪れていただき、富里の歴史と産業、そして久彌さんのことを知っていただきたい。お預かりした貴重な財産を守り育てていくことが、これからの私たちの使命です」

(富里市長 五十嵐博文氏)

※2025年2月28日掲載。本記事に記載の情報は掲載当時のものです。

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