みにきて! みつびし

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創業1678年、日本最古の製薬会社を知る史料館

田辺三菱製薬史料館

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こんにちは︕事務局のカラットです。私たちが何かとお世話になる医薬品は市販薬(一般用医薬品)と処⽅薬(医療用医薬品)に分かれますが、日本国内で販売される医薬品のうち実に90%は処⽅薬が占めることをご存じでしょうか。ところが処⽅薬は、法律によりコマーシャルをすることができず、製薬会社の取り組みはあまり世に知られることがありません。そこで今回は、薬の役割や使命、医薬品産業を紹介するために開設されている、⽥辺三菱製薬史料館におじゃましてきました︕

⽥辺三菱製薬史料館があるのは、⼤阪市にある同社の本社内。御堂筋線淀屋橋駅から地図に従って歩いていくと、⽚側⼀⾞線の道路沿いには⾮常に歴史のありそうな建物が散⾒されます。古い地域なのかな、と思いよく⾒れば、あの建物もこの建物も製薬会社の看板を掲げているではありませんか。おやおや︖と思ううち、2015年に完成したばかりの⽥辺三菱製薬本社ビルに到着しました。

さっそくこの近隣についてのお話を伺ったところ、実は⽥辺三菱製薬本社のある⼤阪市中央区道修町(どしょうまち)は、江⼾時代から薬の町として知られた、⽇本の医薬品産業発祥の地なのだそうです。製薬会社が軒を連ね、さらには薬の神様を祭った少彦名(すくなひこな)神社も鎮座する「薬の聖地」。そのため製薬会社の多くが現在もここを本社所在地としているのだそうです。⽥辺三菱製薬がこの地に拠点を構えたのも、なんと今から約165年前の1855年にさかのぼります。

が、驚くのはまだ早いのです。史料館に⼊るとまず迎えてくれるのが⾒るからに歴史のありそうな、「たなべや薬」と書かれた⼤きな看板。現在の⽥辺三菱製薬の⺟体となる⽥邊屋が、この「たなべや薬(ぐすり)」の販売で薬種業を営み始めたのは実に340年前の1678年のこと。そう、⽥辺三菱製薬は⽇本でもっとも歴史のある(世界でも⼆番⽬︕)製薬会社なのです。

史料館の⼊り⼝に飾られた「たなべや薬」の軒下看板。ここから⽥辺三菱製薬は始まった。創業者「⽥邊屋五兵衞」の名は代々受け継がれ、丸に五を描いた「マルゴ」は⻑く同社の愛称だった。右奥に展示されているのが「勅許看板」。
史料館の⼊り⼝に飾られた「たなべや薬」の軒下看板。ここから⽥辺三菱製薬は始まった。創業者「⽥邊屋五兵衞」の名は代々受け継がれ、丸に五を描いた「マルゴ」は⻑く同社の愛称だった。右奥に展示されているのが「勅許看板」。

⽥邊屋はもともと朱印船貿易で財を成した豪商で、薩摩の島津家と関わりがありました。関ヶ原の戦いで敗戦した島津義弘が撤退する際に⽥邊屋⼀族が⼿助けをし、その恩義に報いるため島津家秘伝の陣中薬の処方が⽥邊屋に伝えられました。これを「たなべや薬」として売り出したのが田辺三菱製薬のルーツ…という壮⼤な歴史ドラマをいきなりお聞きして、思わず「ははあ〜」と平伏してしまいます。

「たなべや薬」は陣中薬だけあって今でいう⽌⾎の効能があり、特に産前産後の薬としてよく売れたそうです。17種類の⽣薬を配合した、お湯で煮出す煎じ薬でした。その効き⽬と品質の⾼さから、禁裏御⽤(今でいう宮中御⽤達)を務めるまでに成⻑しました。史料館には朝廷から賜った栄えある「勅許看板」が展⽰されています。「たなべや薬」の軒先看板とこの勅許看板を掲げた⽥邊屋の薬は、当時の⼈々の安⼼のもとだったのではないでしょうか。

当時の⽥邊屋の店構えを館内に再現。江戸時代の道修町では薬種業者で株仲間を結成し、薬の値段を決めたり品質を検査するなど、現在の厚⽣労働省のような役割も担っていた。
当時の⽥邊屋の店構えを館内に再現。江戸時代の道修町では薬種業者で株仲間を結成し、薬の値段を決めたり品質を検査するなど、現在の厚⽣労働省のような役割も担っていた。

しかしながら時代は進み、ついに開国の世となります。⿊船ショックは薬種業にももたらされ、⽥邊屋は商品を伝統の和漢薬から⻄洋渡来の「洋薬」に切り替えるかの選択を迫られます。そこで⼗⼆代⽥邊五兵衞は「これからの時代は洋薬だ」と決断。洋薬の輸入販売へと事業を転換していきます。

⽥邊屋が次に迎える転機は第⼀次世界⼤戦でした。当時洋薬の主な輸⼊元といえばドイツでしたが、戦争で⽇本はドイツと敵対することになり薬不⾜に陥ってしまいます。激しく⾼騰する薬に売り渋りが問題化するなか、⽥邊屋は「⼈命を商売としてはならない」と洋薬の製造と販売を続けました。

⼯場が空襲に⾒舞われるなど戦後は苦難の時代が続きましたが、⼈を救う、質の⾼い薬を作るという使命感は失われませんでした。そして1950年、品質管理において⼤きな成果を上げたものへ贈られる「デミング賞」の第⼀回受賞者に選ばれます。このことは社員にとって⼤きな励みとなってその後の成⻑へとつながり、創業340年を超える⽥辺三菱製薬へと発展してきました。

「なおせないを、なくしたい」⽥辺三菱製薬の挑戦

⽥辺三菱製薬史料館では、創業から現在に⾄るまでの同社の歴史を、当時の品や復元モデルなどを通じて知ることができます。が、ここまでを読んでいただければおわかりのとおり、⽣薬を調合した和漢薬の販売に始まり、薬の聖地・道修町における薬種商としての発展、明治維新による洋薬への転換、戦争を経て洋薬の国産化へ…という⽥辺三菱製薬の歴史は、そのまま⽇本の薬の歴史でもあるのです。その意味でも、こちらの史料館で⾒られる資料は⼤変貴重なものです。

展⽰室に並べられた、戦前〜戦後期に⽥辺三菱製薬が製造・販売した薬の数々。パッケージデザインだけでなく薬の形状などにも時代の移り変わりが⾒える。
展⽰室に並べられた、戦前〜戦後期に⽥辺三菱製薬が製造・販売した薬の数々。パッケージデザインだけでなく薬の形状などにも時代の移り変わりが⾒える。

そして展⽰コーナーの最後は、この⻑い歴史を経た⽥辺三菱製薬の現在の取り組みが紹介されています。⽥辺三菱製薬が使命としているのは、「なおせないを、なくしたい」。新薬の開発には膨⼤な費⽤がかかります。巨額の資⾦を投資してなお、製品となるのはごくわずかという、厳しい業界でもあります。また、⼀度完成とされた新薬が、その後別の病気にも効くことがわかるケースもあり、するとその薬にはさらなる研究が行なわれることとなり、とにかく⻑い時間と莫⼤な費⽤が必要なのが薬の道のりです。

それでも⽥辺三菱製薬では江⼾の時代から脈々と続く使命を背負い、「アンメット・メディカル・ニーズ」、すなわち、まだ満たされていない医療ニーズに応えられる新薬の開発を⽬指し、⽇々研究開発に励んでいます。

三菱との歴史的関わりも深く、1941年に福岡県の吉富⼯場を三菱第四代社⻑・岩崎⼩彌太が訪れた際に書き残した書も展⽰されている。
三菱との歴史的関わりも深く、1941年に福岡県の吉富⼯場を三菱第四代社⻑・岩崎⼩彌太が訪れた際に書き残した書も展⽰されている。

冒頭に書いたとおり医薬品はコマーシャルに制限のある商品であり、特になじみのある市販薬と違い病院でもらう処⽅薬にはどこか冷たい印象を持ってしまうかもしれません。ですが、すべての薬⼀粒⼀粒には、「治らない病気を治したい」という強い願いと努⼒が込められています。

今度病院で薬をもらったら、⽇本の製薬業と⽥辺三菱製薬が歩んできた⻑い歴史にも思いをはせてみてくださいね。また道修町では、⽥辺三菱製薬が中⼼となって展開している各製薬会社の展⽰コーナーや少彦名神社をめぐる「道修町ミュージアムストリート 」も紹介されています。⼤阪へお出かけの際は、健康祈願を兼ねてぜひ道修町を訪れてみましょう︕


注:本文中の情報等はいずれも2019年3月現在のものです。

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